写真で見る曜変天目は強く光を当てているため模様がはっきりと浮かび上がっていますが、実際にはもう少ししっとりとした印象であり、これぞ黒釉といった独特の美しさを感じられます。
曜変天目をはじめとした中国・宋の時代の天目茶碗、油滴天目や禾目天目などは鉄分が多く含まれた釉薬(鉄釉)を施釉し焼成しています。
焼く前の鉄釉自体は茶色や赤茶色をしていることが多いですが、高温で焼くことの呈色反応で黒く変化し、黒釉の茶碗となるのです。
この建窯で焼かれた黒釉の茶碗を「建盞(けんさん)」と呼びましす。
そして、その中でさらに窯変現象を起こしたものが、特別な名前を冠されている曜変天目や油滴天目、禾目天目となるのです。
※呈色反応・・・化学反応により発色や変色を起こすこと。おおよそコントロールができる。
※窯変現象・・・窯の中で予期せぬ変化が起こり模様などができること。コントロールが難しい。
目次
なぜ天目は黒い茶碗なのか
実は黒い茶碗は天目茶碗より前から中国で作られておりました。
ただ、特に価値のあるものとはされておらず、日用品としての黒い茶碗でしかありません。
お茶を飲むための茶碗としても、北宋時代より前は青磁の茶碗が茶の色を引き立てる良いものとされてきました。
しかしそれが、北宋時代に入ると建窯で焼かれた黒い茶碗(建盞)が重宝されるようになっていきます。
それには宋代において喫茶方法が変わってきたことが深く関わってきております。
宋代になると「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれる文化の流行にするようになり、白い茶が良いものとされていきます。
その白いお茶がよく映えるものとして、建窯で作られていた黒い茶碗が注目されました。
その結果、建窯ではもともと他の種類の茶碗も焼いていたが、そのほとんどが黒釉の茶碗と変わっていくのです。
中国のお茶の飲み方
闘茶の前にまずは中国のお茶のお話から。
中国でお茶が当たり前のよう栽培や飲用されたのは漢晋時代以降とされています。
中国の喫茶法は唐代以前では煮茶法、唐代などでは烹茶といった、茶葉を鍋で煮出したものをお茶として飲んでいました。
料理とともに飲むお茶として、簡単かつ多くの量が作れることで最も一般的な方法でした。
それがそれが宋代になると「点茶法(てんちゃほう)」も用いられるようになってきます。
天茶法は茶の固まりを挽き砕いて粉にし、茶碗の中に入れ、湯とともに茶筅で混ぜ溶かすことで入れる方法です。
わかりやすく言うと、日本の抹茶のルーツとなります。
1杯ずつしか入れられず、手間もかかることから一般的な手法というよりは作法のようなものとして利用されていきます。
そして、その作法がいかに優れているかを競い合うことで「闘茶」という文化が流行したのです。
建盞が作られていた建窯では昔から茶の栽培がされており、深くお茶と関わる地域でした。
そのため、建窯跡からは黒釉の天目だけでなく、青磁などの飲茶に使われていたと思われる茶器が発掘されています。
中国・宋代の闘茶とは
宋代では飲茶自体が流行となり、それ自体が芸術的なものとして捉えれていきます。
よりよい茶葉を使うことだけでなく、作法を極め、それに伴う茶道具が求められていきます。
そのために建窯の黒釉の陶磁器が生み出され、茶の色が映えることから黒釉建盞が重宝されていきます。
そしてそれをさらに加速するものとして「闘茶(とうちゃ)」がブームとなります。ちなみに中国語では「斗茶」と書きます。
これにより黒釉の建盞は絶対的地位を確保するまでになるのです。
闘茶とは読んで字の如く、お茶で様々なこと闘う遊戯でした。
中国では飲茶の歴史は長く、前述のとおり様々な点て方がありましたが、茶の混ざり具合、泡の立ち方、温度など作法として、個人の差が出て難しいことから「天茶法」が闘茶には採用されます。
闘茶に近い遊びは実は宋代以前の唐より行われていたとされていますが、宋代になり発展してきました。
蔡襄の『茶録』によると闘茶には様々な勝敗の付け方がありました。
・茶や水の種類を判別する、いわゆる利き茶
・茶の味と香りを競う闘茶
・茶の良否自体を競う茶比べ
・茶を点てて茶碗に水の跡がつかないようにする競技
・茶を点てた時の湯の色の白さを競うもの
など様々なものが行われています。
お茶でこれだけ遊べるなんてすごいですよね。
特にその中でも白さを競うものは宋代独特のものであり、綺麗に混ぜ茶の表面が白く泡立って湯が見えない状態が最高であり、それを競ったと言います。
これは、茶葉や水などの良し悪し、茶を入れる技術、その白を引き立てる茶碗と三拍子揃ってないとできない、競技性の高い闘茶だったと思います。
さらにこれがレベルが上がっていき、白い泡自体がいかに美しいか、泡がどれだけ長持ちするかまで競う競技となっていったそうです。
それによりどんどん黒釉の建盞の需要が高まっていったと言われています。
ある人はお茶の入れやすい建盞を求め、ある人は温度の管理しやすい建盞を求め、またある人はより美しく見える建盞を求めていったわけです。
点茶においては茶葉の量は予め測ったものを固まりとして用意できたが、入れるお湯を決まった量を作法の中でスムーズに行うことはとても難しかったとされています。
そこで茶碗自体が改良されていき、お湯の量がわかるような目安が小さな膨らみとして付けられるようになりました。
火傷の原因などにもなる湯を混ぜる際に跳ねを防ぐの機能も備えていたと言います。
また、建盞は分厚く土にも鉄分を含んでいたため、湯が冷めにくく温度を一定に保つことを求められた闘茶に合っていたともされます。
そして、黒釉の茶碗の美しさを、一番茶が映える茶碗を何より求めたことでしょう。
茶葉を入れ、湯を入れ、そして混ぜることにより白く美しくなっていく姿が一番映える茶碗を手に入れることはとても遊戯として楽しかったと思います。
ただの真っ黒だけでなく、兎毫盞(禾目天目)、鷓鴣斑(油滴天目)、毫変盞など様々な模様のあるものも、茶碗の中の美しさを作るのに求められたのだと思います。
「大観茶論」では兎毫盞は茶湯の色をよりいっそう鮮やかに引き立てるとされています。