4つ目の曜変天目なのか、それとも毫変盞なのか、歴史的発見となる天目茶碗が日本で見つかりました。
この茶碗は20年ほど前に入手をしましたが、曜変天目は静嘉堂文庫のような斑紋の種類しかないと考えており、その当時は特に研究をしませんでした。
近年になり、とあることがきっかけで禾目で更には線状紋(線条紋)の釉薬が縦横斜めに流れてできる模様の曜変天目が存在していたことを知り、所有していたこの茶碗がそうなのではないかと思い、数年前から文献や科学鑑定にてその正体を研究をし始めました。
4つ目の曜変天目なのか、それとも毫変盞なのか、歴史的発見となる天目茶碗が日本で見つかりました。
この茶碗は20年ほど前に入手をしましたが、曜変天目は静嘉堂文庫のような斑紋の種類しかないと考えており、その当時は特に研究をしませんでした。
近年になり、とあることがきっかけで禾目で更には線状紋(線条紋)の釉薬が縦横斜めに流れてできる模様の曜変天目が存在していたことを知り、所有していたこの茶碗がそうなのではないかと思い、数年前から文献や科学鑑定にてその正体を研究をし始めました。
「織田信長の所有していたかもしれない天目茶碗の可能性やはたまた毫変盞の可能性があるのであれば、日の目を浴びさせてあげたい。そして、世の美術品の愛好家たちに見てもらい、その真贋を議論や鑑定したい。」
という思いの元、当初はこのホームページを公開しました。
そして公開から三年経った今、この陶磁器は毫変盞(曜変天目)であり、「織田信長の曜変天目である」ということを研究会で結論づけしました。
研究はあたっては、主に日本と中国の文献の検証、現存する宋代の天目茶碗との比較、蛍光X線による化学鑑定、電子顕微鏡による鑑定を行っています。
その研究の結果、宋の自体の天目であること、そして出土の場所や文献との一致から織田信長の曜変天目であることと推定いたしました。
一つの茶碗のことを余すことなく、紹介、説明をさせていただきます。
どうぞ、この茶碗の世界をお楽しみくださいませ。
※サイトの運営や公開の目的について詳しくは「このサイトについて」もよろしければ目を通してくださいませ
宋代の曜変天目は中国には1つもありませんが、現在、日本には国宝とされる曜変天目が3碗、重要文化財は1碗残っています。
国宝の曜変天目は静嘉堂文庫美術館、藤田美術館、龍光院が所蔵をしており、重要文化財はMIHO MUSEUMが所蔵しています。
※MIHO MUSEUM所蔵は正しくは耀変天目
しかし、 桃山時代(16世紀後半)の日本には全てで10碗は存在していたとされ、そのうちの一つは実は織田信長が所有していたとされています。
その曜変天目は足利将軍家が東山御物の中から譲ったもので、当時の織田信長は日本において事実上の最上位の権力者であったことを考えると、その曜変天目も最上級であると考えられます。
「名物目利聞書」によれば、『東山御物の曜変天目は、信長に伝えられ、本能寺で焼失した為、稲葉丹州公の曜変天目が最高の物となったと』あります。
これを言い換えれば、『本能寺で焼失していなければ、信長に伝えられた曜変天目は曜変の中で最高の物』と読み取れることができます。
信長はそれを大切にし肌身離さず持ち歩いていたとさまざまな言い伝えがあります。
本能寺で茶会を開いた際にも、安土城から持ち込まれた「大名物茶器」38点とは別に、目録に載せていない曜変天目を信長は持参していたとされています。
しかし信長は1582年に「本能寺の変」で炎に包まれ亡くなりました。
その焼け跡から曜変天目は見つからず消失したとされていますが、実は破片すらも見つかっておらず、残っていてもおかしくないのです。
とても大切な茶碗であったことから、近習に持たせて逃したことも考えられます。また、本能寺に侵入した誰かが盗んだ可能性もあります。
それが巡り巡って現代で見つかったとしてもおかしくありません。
実は東山御物では曜変天目は「馬こう絆」の青磁碗より下位にあり、今では国宝とされている3点の曜変天目などは、当時は余り高い地位でなかったとされています。
その為、この3点は本能寺の茶会の目録には記載されていません。
織田信長が手に入れた曜変天目が最上級のものであると考えられ、それは中国においても最上級であった、いまだ誰も見たことがない「毫変盞」であるのです。
毫変盞とは中国の建窯にて焼かれた天目茶碗の種類で、北宋の「茶録」には「その価は甚だ高く且つ得ることができない」と記されていた幻の天目のことを指します
それぞの漢字の意味は
【毫=禾=芒(稲の穂先)】
【変=曜変】
【盞=茶碗】
となります。
その名の通り、禾目の曜変の茶碗ということになります。
禾目、油滴、曜変、毫変盞という順で価値が上がり、毫変盞は最高位になっております。
幻というのも大袈裟な言い回しではなく、本当に現存しているものが日本はおろか中国にも世界中にもなく文献でしか存在があきらかではありません。
日本の骨董業界でもあまり知られていません。
宋代建窯が閉鎖して800年間の長い間、毫変盞はまったく触れられませんでしたが、1990年に中国の建窯遺跡調査団が発掘調査した研究を要約した、中国古陶磁研究会名誉会長の葉文程と福建省博物館の林忠幹によってその存在が証明され「建窯瓷」に発表されました。
中国の発掘にて数点の毫変盞らしき器が出土(建窯1号窯<大路後門山>出土、福建省博物館)されていますが、これは釉薬を2度掛けし模様を人為的に絵付けされたもので、毫変盞を模したものとされております。
本物の毫変盞は釉薬を1度だけ浸し掛けで施釉して焼いた「1度掛け」でできており、高度な焼成技術によってそれぞれに窯変現象を起こし、美しい模様となったもので、描いたものとは遥かに価値が違います。
前述の通り、毫変盞については文献でしか残っていませんので、文献と照らし合わせてこの天目茶碗を研究していきます。
中国の『方輿勝覧』には次の一文があります。「“兔毫盏,出鸥宁之水吉。…兔毫然毫色异者,土人谓之 毫变盏 ,其价甚高,且艰得之。 ”」
この意味は「その模様は兔毫でありながら異なった模様である」と書かれています。(兔毫然毫色异者)
その他にも『大宋宣和遗事』には「异毫盏」という言葉が出てきており、宋徽宗がお茶を振る舞うために使用したともされています。
「”执事者以宝器进,徽宗酌酒以赐,命皇子嘉王楷宣劝。又以惠山泉、建溪”异毫盏”,烹新贡太平嘉瑞茶,赐蔡京饮之。」
异毫盏は「異なる兎毫の盏」であり、毫変盞と意味は似ています。
【毫=禾=芒(稲の穂先)】【変=曜変】【盞=茶碗】の意味そのものであるのです。
兎毫という言葉は、黒釉の中に細密な線条に流れた模様がまるで兎の毛のようであったことから名付けられています。
日本においては「禾目」と言い、稲穂の先のような様子から名付けら得れています。
どちらの意味であっても、糸や毛のような細い線条のものを指します。
方輿勝覧や大宋宣和遗事の「兔毫でありながら異なった模様」と君台観左右帳記の「錦のような模様」は同じことを表しているものと考えることもできます。
また茶録においてはその特徴について「満遍なく模様がある」とも書かれています。
これは、茶碗の内側も外側も両側に模様があるという意味で、禾目天目(兎毫盞)と同じと考えらます。
曜変が登場するのは、日本では鎌倉時代の1280年前後に書かれた円覚寺の『仏日庵公物目録』で、その中に「窯変」が登場します。
次に室町時代の『新札往来』1367年と『桂川地蔵記』応永年間には「容変」として登場します。
つぎに、1420年ごろ『禅林小歌』には「曜下」が登場します。
ここでの、「曜」は日、月と水、火、木、金、土の星をあらわし、「下」は、卞=弁=冠を表しています。
要するに、冠の中で、星が輝く茶碗である事を意味します。
この中の「曜変 光を持ち毒を謝す」は、光を当てると線状の模様がより浮き出て、まるで毒を吸い取る様に見えると解釈をしました。
日本で「曜変」という言葉が初めて使われたのは室町時代(1336–1573年)の『能阿相伝集』になります。
その中の記述に「曜変、天下に稀なる物なり、薬の色如豹皮建盞の内の上々也」とございます。
意味は「曜変は天下でも稀に見る茶碗である。釉には豹皮の様な模様があり、建盞の中で素晴らしい物である。」となります。
当時は曜変天目の模様を豹柄と例えており、その上でこのサイトの茶碗を見てみると、まさに豹柄とも言える模様であることがわかります。
次に室町時代の床飾りや中国美術鑑賞の書として『君台観左右帳記』がございます。
曜変の項目には「曜変、建盞の内の無上也。世上になき物也。地いかにもくろく、こきるり、うすきるりのほしひたとあり。又、き色・白色・こくうすきるりなとの色々ましりて、にしきのやうなるくすりもあり。萬疋の物也。」
という記述がございます。
意味は「曜変天目は、建盞の中の極上でこの世にない珍しい物です。地色は真黒で、濃い瑠璃色や薄い瑠璃色の星が、沢山散らばる。又、これとは別に、黄色、白色、濃い瑠璃色や薄い瑠璃色など、様々な色が交じり、錦の編み物(線条紋)の様な釉薬の物もある。萬疋の値打ちがある。」という意味となります。
これによると、曜変天目は「黒い色の茶碗に瑠璃色や薄い瑠璃色も星のような模様のもの」と言っていますが、それとは別に「黄色、白色、濃い瑠璃色、薄い瑠璃色が混ざって錦のような模様になる」のものもあると書かれています。
前者の「星のような模様」とはおそらく円形の斑紋のことであるので、日本の国宝の曜変天目がこれにあたると考えます。
そして後者のもう一つの「錦のような模様」とは織物のような縦糸と横糸が織りなしている姿であると考えています。
これを日本の3つ国宝の曜変天目に当てはめるのは少し無理があるように感じます。
糸のような姿とは釉薬が流れるような兎毫と考えるのが妥当です。
それが錦のように、横にも流れている特別な兎毫こそが、もうひとつの曜変天目と推測をいたします。
そして、この特別な兎毫盞というのが中国の『方輿勝覧』に記載のある毫変盞の特徴と一致するのです。
参考:真相『君台観左右帳記』(有隣堂、明治 17 年 10 月、東京博物館版)
余談ですが、今泉雄作氏が昭和に曜変天目の項の内容を新しく2つに分け、前段を曜変天目と後段を芒変天目、2つの性質を合わたものを芒曜天目とし、3種類あると発表しました。(「天目茶碗考」塚本靖、昭和10年9月、学藝書院。)
ただ、現存しているものがなく、誰もみたことがない為、机上の空論となっています。
しかし、芒曜や芒変の名称は「和漢茶誌(三谷宗鎮著 1727年)」にも登場しており、当時は曜変天目の伝承や伝聞として、書などが残っていたのかもしれません。
中国の『方輿勝覧』や『君台観左右帳記』にあるような、兔毫の異なった模様、錦の模様というの模様に関して一致をしています。
禾目はいわゆる線状紋(線条紋)であり、釉薬が焼成の際に曜変現象で流れることでできる模様です。
通常、釉薬は上から下に流れるため、よくある禾目天目となるのですが、この茶碗は横や斜めに流れています。
釉薬が流れすぎてしまうとただの単色に近い陶磁器になるのですが、焼成時に浮き出てきた結晶のみが綺麗に流れており、これが自然に出来たとしたら、あり得ない確率となるのです。
そして、中国の文献であった特徴でまず「満遍なく模様がある」と書かれている通り、この天目茶碗は内外ほぼ変わらず模様が入っています。
この天目茶碗の内側の模様の配置は、静嘉堂の国宝の曜変と良く似た模様の配置となっていますが、外側はこの茶碗だけの独自の模様となっております。
国宝となっている3点の曜変天目は内側にしか模様はでておらず、この特徴とは異なります。
藤田美術館のものに関しては若干出ているものの、満遍なくとは言えません。
そのため、この茶碗は初の裏表の模様の曜変天目となり、大変珍しいものになります。
色に関しては君台観左右帳記に書かれた通りで、瑠璃、濃い瑠璃、黄色、白の4色のみで、赤や緑などの色は存在しません。そして、光を当てないと色を発色しません。
これは、現代のコピー品に使われるスピネル系の顔料の色とも違います。
コピー物の曜変天目の釉薬は、コバルトのスピネル顔料等で書いたり、掛けたり、塗ったりしており、拡大鏡で見れば内側から現れたものでなく、上から顔料を載せたように見え、薄暗い所でも綺麗に自ら発色しています。
曜変天目などの模様は色は自ら発色せず、薄暗いところではほぼ真っ黒の茶碗にしかみえません。しかし、光を当てればそれに反応して虹色の様に発色する為、スピネル顔料の色とは全く別物です。これは構造色と呼びます。
そして、この天目茶碗の内側の模様の配置は、静嘉堂の国宝の曜変と良く似た模様の配置となっているです。
しかし外側は、この茶碗だけの独自の模様となり、そして、兎毫(禾目)の模様も、色も、他の曜変天目とは全く違います。
釉薬の内側から表面に滲み出たような模様は、現代のコピー品の色をのせた様な模様とも違います。
大きさは静嘉堂文庫の曜変天目とほぼ同じ大きさ形状の束口碗です。
器胎がすこし厚く、重いため、静嘉堂文庫のものとは少し違うので、北宋から南宋の初めに作られたものと判断をしました。
厚みがあり、また闘茶の湯の量の目安のためくぼみなどがある、茶碗の内部は3段となっています。
また、茶の跳ねを防ぐための鼈口の形状をしています。
このあたりは静嘉堂文庫のものと共通いたします。
釉薬は天目釉(黒釉)であり、かせの様子から、かなり古いものとわかります。
口縁部は薄くできているため、釉薬が下に流れ胎土が露出しています。
高台から見える土は、古い建窯でよく使われていた黒茶色で粘度のあるネットリとした土であり、高台内の渦巻状の模様も多少荒くできています。これは温度が上がらずやや焼成不足であったことが考えられます。
一見は兔毫に見えない模様をしていますが、実は釉薬が流れたことでできた線条紋(兎毫紋)です。
模様を見ると人工的に書いた様にも思えるが、これを拡大顕微鏡で見ると線状のまわりに鉄の玉の様な結晶の球体が付き、立体に見える事から、自然現象と考えられます。この模様は焼成時に窯変現象が起きてできています。
これは、油滴から禾目になる現象として建窯磁<二玄社>にも書かれています。
この模様を電子顕微鏡やデジタル一眼レフの接写で見てみると、内側から立体的に現れていることが明らかです。
しかし立体的と言っても、触ってもその立体感が分かるものではなく、かなり細かい立体であることから、描いたものではありません。
そして、その分相により成分が分かれた様子が、模様の周辺に結晶が固まっていることからわかり、一度掛けで施釉したものであると考えられます。
実際に、中国で販売されている描いて作られた模倣品をいくつか購入し、比較をしました。
同じくらいの距離で撮影をした比較写真があるのでご覧下さい。
まず、分かるのはその模様の細かさが明らかに違います。
このサイトの天目茶碗は錦状の模様がかなり細かく、その細さは0.1mm程度のものもあり、筆で描くことが難しいレベルです。
また、その模様の周りには結晶が集まってできており、青い線条紋はよくみると単色でなく、その周りに黄色や白の鉄の玉の様な結晶が集まっています。
これは釉薬の成分が分離してできた現象です。
色に関しては君台観左右帳記に書かれた通りで、瑠璃、濃い瑠璃、黄色、白の4色のみで、赤や緑などの色は存在しません。
模様の位置もとても自然です。
内側の模様の位置は静嘉堂文庫のものに近く、これは内側のほぼくぼみの位置に集まっており、くぼみに釉薬が集まることが理由と考えています。
下の方(茶溜り)に行くほど、模様が密集しつながっており、上の方(茶巾摺)に行くほど模様が離れています。
一方、模倣品は描いたもののため、線が太く、塗料を乗せてから流している印象です。
現代のコピー品は、100倍程度の拡大鏡や拡大写真で見れば、平面的で上から色々な色の模様を不自然乗せているため、すぐにわかります。
自然現象ではないため不自然な線の太さになっています。
模倣品は不自然な色の出方をしており、本物の天目茶碗では釉薬の成分では考えにくい朱色の色がや上から青、赤、黄色にはっきりと分かれるような不自然で人為的な模様をしています。不自然に色が混ざったようなインクの渦が見えるものがあります。
そして、上に盛りつけていることも、指で触ってもわかります。
それから、現代のコピー品は、釉薬だけで無く、高台や茶碗の形、高台の土等、どこを見ても、宋代の建窯とは違う事が分かります。
複製品、模倣品が存在することから、その印象が先立って、この茶碗をぱっと見で偽物と言う人はいますが、上記の点から違うものと断言ができます。
むしろ、これらの模倣品の元となる、今まで見つけられなかった本物と考えても良いでしょう。
日本の国宝の曜変天目3点と明らかに違う点として、外側にも同様に模様が出ております。
この特徴は油滴天目や禾目天目に多く見られます。
むしろ、禾目の変異種である毫変盞に出ているのはおかしくありません。
これは茶碗と匣鉢との隙間との関係性で釉薬が流れができたことが理由であると考えます。
建盞の釉薬は熱の変化により成分が異なる性質に分かれる「分相ー析晶釉」です。
分相により主に酸化第二鉄の結晶が分かれ、その結果、禾目や油滴、曜変などの模様となって現れます。
禾目天目は、熱されできた気泡に集まった酸化第二鉄の結晶が、さらに熱され溶け流れることでできます。
液体は上から下に流れるため、よくある縦方向の線条の禾目天目となります。
参考サイト>陶磁オンライン美術館「禾目天目」
このサイトの毫変盞は、気泡に集まった酸化第二鉄の結晶がさらに熱され溶けた際に、さらに温度が変化することで、粘度か下がり、本来下に流れるものが横や斜めに流れることで起きてるものと考えています。
そのため、ぱっと見は丸が連なっているように見える模様ですが、実は線が右往左往してつながったものであることがわかります。
実は小さい規模であればこれに似た現象は禾目天目にもあり、溶けた釉薬が斜めに流れることは起こりうる現象です。
しかしこれが潰れることなくあれだけ細く、長く、大きくはっきりと釉薬が横や斜めに流れていることは奇跡的で、自然に模様ができることはあり得ない確率なのです。
青色(瑠璃色)であれだけの発色をする兎毫盞というのも神秘的です。
最後にこの毫変盞を蛍光X線検査で成分分析を行いました。
『建窯瓷』に記載のある建盞の兎毫盞の数字に胎土、釉薬共に近い数値であり、釉薬の顔料は当時の宋代の鉱物だけ検出されています。
現代のコピー品に使われる成分数値は検出されておりません。
勿論、検査データや、根拠資料は、エビデンスとして、いつでも立証できる様に保存してあります。
成分分析結果の見方はとても専門的であり、その結果を載せても誤解を招くため、非公開としております。
誰にでも見せれるものではないですが、細かな数値に関しての理解のある方には条件付きでお見せいたします。
織田信長の曜変天目しかり、宋代で最も価値のあった毫変盞しかり、その当時の現物を見た人は今では誰もいないです。
そのため、我々研究者は文献、形状の比較、成分分析を行い正体を明らかにしていきます。
現代の日本で本能寺の変で焼失した曜変天目が発見された場合、誰が認めれば本物の曜変天目となるのでしょうか。
ある曜変天目の研究家という学芸員が、信長の曜変天目がこの世に存在している可能性について、「本能寺の変で焼け跡から曜変天目の破片が見つからないのでどこかに存在する可能性がある」といいます。
この茶碗が織田信長の所持していたものという確固たる確証は、新たな文献が出てこない限り難しいかもしれません。
しかし、織田信長が最高峰の曜変天目=毫変盞を所持していたと考え、この茶碗は最高峰の毫変盞でることを考えると、織田信長が所持していたものである可能性は十分にあり得るのです。
中国では、これに似た偽物もたくさん存在しますが、拡大顕微鏡や蛍光x線検査で、釉薬の成分分析をすればすぐに分かります。
また、目視においても、高台、釉調、形、貫入、色等を見ればそれが本物かどうかの判断は難しくありません。
特にこの茶碗は伝世品の為、その当時の「宋代」のものであるかは知識や経験のある研究家ならば分かる筈です。
様々な研究を進め、条件がある程度揃ってきたので、こうして公開をすることといたしました。
この曜変天目についてよくある質問と答えです