天目茶碗は建窯で焼かれており、建窯で焼かれた盞(茶碗)から建盞とも呼ばれています。
建窯は宋時代に中国の南方にあった名窯のひとつであり、現在は遺跡として福建省の北部の閩北(びんほく)に残っています。
建窯では多くの陶磁器が製作されており、それは天目茶碗のような黒釉陶磁の他、青磁や青白磁も制作されていたことが発掘品からわかっています。
中でも黒釉陶磁が多く、これは当時の闘茶の歴史が関わっています。
>>リンク:曜変天目が黒釉の理由、中国の闘茶との深い関係
さて、天目茶碗はどうやって焼かれていたのでしょうか。
目次
制作はろくろでの大量生産
建窯では近くでは鉄粉をやや含む土が取れたたため、それを使用していました。
胎土は灰黒色や濃い灰色です。
天目茶碗は実用品としての製品でもあったため、大量に作れる手法として轆轤(ろくろ)を用いて作られていました。
建盞で作られていた陶磁器は、茶碗やお皿といった円形のものがほとんどであり、遠心力を利用したろくろによる成形は効率が良かったと考えられます。
土に水をつけて回転させることで滑りを良くし基本的な形を作り、一部をヘラやカンナを使い整形します。
釉薬は「浸し掛け」の鉄釉
釉薬は「浸し掛け」を用いて主に一度掛けで施釉されています。
浸し掛けとは、乾燥した碗を裏返し、高台をつまんで釉薬に浸す手法で、均一にムラなく胎土に馴染ませるのはとても難しいとされます。
天目のほとんどは黒釉と言われますが、実際には鉄分を多く含んだ鉄釉です。
鉄分を多く含むことで焼いた時に変色が起き、黒くなったり、成分が分離することで模様ができたりします。
支焼具から漏斗形の匣鉢へ
陶磁器を窯詰めする際には、初期は支焼具と呼ばれる陶磁器を支える道具を使い積み重ねていましたが、裸のまま窯内に入れることでの不安定さがありました。
その後、陶磁器を覆うことのできる、匣鉢(さや・こうばち)に入れ、積み重ねていくようになります。
現代の匣鉢は円柱や箱形であることがほとんどですが、この当時の茶碗用の匣鉢は漏斗状になり、上に積み重ねることが可能となります。
写真のものは焼成段階でのくっついてしまったものですが、概ねこのようになっています。
登り窯での大量生産
建窯では登り窯の内の龍窯(りゅうよう)と呼ばれる斜面を利用した単室の窯を利用していました。
見た目が龍に似ていたことからそのように呼ばれています。
龍窯は温度の上昇・下降が早く、焼成時間の短縮や還元焼成(酸素のない状態)にしやすいという特徴があります。
日用品を制作していたことから一度の一万個以上の大量の焼成を行っていたとされています。