戦国時代の日本には10碗ほどの曜変天目があったと言われており、その一つは曜変天目は織田信長も所持をしていたのではないかとされています。
しかし、その曜変天目は現在は残っていないません。
信長はその曜変天目を大変気に入り、肌身離さず持ち歩いており、本能寺の変で焼けてしまったと言われています。
目次
信長と茶器
織田信長は茶器の収集家として有名であり、唐物茶入れや茶の湯道具を多く手に入れていました。
茶器への情熱はすごく、収集していただけでなく、部下への褒美として与えていたほどです。
本能寺の茶会で安土城から持ち込まれた「大名物茶器38点」など多くの茶器にまつわる話は沢山あります。
このような描写は創作物でも多く描かれており、茶器の収集家のイメージはなんとなく知っている人は多いのではないでしょうか。
最近では大河ドラマの「麒麟がくる」でも多く描かれており、落とした城の茶器を今井宗久に改めさせる姿や、松永久秀の所有していた平蜘蛛に執着する姿などが描かれています。
しかしながら、麒麟がくるでは曜変天目については登場しません。
それもそのはずである、織田信長の所有していたとされる曜変天目は、図画として残っていないですから。
どんな色形だったのか、どんな斑紋が出ていたのかもまったくわからないので、それを模したものを作れないのです。
蘭奢待など信長にまつわるものはたくさん出てきて少し、期待もしましたけども・・・。
本能寺の茶会の目録に曜変天目は存在ない
織田信長の茶器にまつわる逸話として最大級であり最大の謎が「本能寺の茶会」になります。
本能寺の変の前日に行われていたとも、本能寺の変の日の後に行う予定だったとも言われているこの会。
その茶会に向けて織田信長は安土城から本能寺に38点もの大名物茶器を持ち込んでいることから、大規模な茶会であったことが想像されます。
しかし、その目録に曜変天目にあたるものは記載がありません。
現在ではこれほどまでに価値のある物とされ、曜変天目が何故目録に記載されなかったのでしょう。
愛用品として信長がとても気に入っていたので人に見せることをしなかったのか。
それとも当時の他の大名物とされる茶器と比べると価値の低いものであったからなのでしょうか。
本当に本能寺の変で焼けてしまったのか
先ほどの38点の大名物は本能寺に持ち込んだことにより、本能寺の変で全て焼けてしまったとされています。
しかし、信長の曜変天目はそこに入っていないので、明確に焼けてしまったとは言い切れないのです。
信長が肌身離さず持ち歩いていたという逸話もありますし、そう考えれば焼けてしまっていてもおかしくはありません。
でも、その日は安土に置いてきたのかもしれない。
もしくは本能寺の変で誰かに持たせて逃したかもしれない。
歴史ロマン的にはやっぱり残っていて欲しいので、後者のように焼け落ちていないことを願うばかりであります。
信長の天目茶碗はどんな姿だったか
足利義政から織田信長へと渡った可能性は非常に可能性が高いであろうということは考えられます。
しかし前述のとおり、その姿は現在は誰も知らない。
残念ながら現存する3つの曜変天目のように信長から誰かへ伝来をすることはできなかったのです。
そして、書物としてその姿が図に残ることもなかったのです。これも肌身離さず持っていたからこそかもしれません。
曜変天目にも色々なタイプがあり、君台観左右帳記には、曜変天目の項に、前段の曜変天目と後段の芒変天目、2つの性質を合わた芒曜天目の3種類があったとされています。
そして、当時の信長の地位を考えると「最上級の曜変天目」すなわち「芒曜天目」である可能性は大いにあります。
足利将軍家が東山御物のうち、最上級の曜変天目を信長に渡したと考えてもおかしくありません。
現存する3つの曜変天目と全く異なる見た目である可能性もあり、それを見つけるのはとても困難かもしれません。